この春転職した。
これまでの職場は、ごく一部のことに目をつぶれば
どちらかというと居心地がよく
どうしても転職をしなければならないような事情はなかった。
ちょっと変な人はいたけれど(他人から見れば私も十分に変な人にちがいない)
それが心を乱し、耐えられないというほどではなかった。
「変な人」は気に入らない人を攻撃する人だった。
私も一時期ターゲットになった。
しかし、師が教えてくれた
近江商人の「三方良し」を工夫して実践してみたら
私はその「変な人」のお気に入りになってしまった。
それはそれでとても面倒なことだったけど
自分なりの対処で十分精神的安定を保てていた。
仕事も楽しくやれていた。
ただ、「変な人のそばで仕事をしたくない」という願望はあった。
しかし、そういうこととは全く別に
いつかの新年会で師が言った「数年後を見据えた準備」という言葉がずっと頭にあり、
いつか機会があったら次のステップへ進もうと
それなりの準備をしていた。
昨年、チャンスが来たが、私はその波に乗れなかった。
逃した魚は大きくて少し悔やまれたが
あっさりあきらめた。
そして、それまでの仕事のスキルを上げることに注力した。
だけど、心のどこかではあきらめていなかったのだろう。
転職情報だけは受け取り続けていた。
もう二度とあんな募集にはありつけないと思っていたら
なんと、今年も同じ募集を見つけた。
昨年あきらめた仕事がまた目の前に現れた。
昨年乗り損ねた波がまた私のところにやってきた。
まるで、天から私の手に
「ちゃんと受け取りなさい」と渡された贈り物のようだった。
そして私は新しい仕事に就けた。
はっきり言って前途には多難が待ち受けていそうだ。
いや、もうその最中にいる。
記憶のテーブルが年々小さくなり、
覚えたと思ったことがぽろぽろとこぼれていく情けなさ。
点がわかっても、それがなかなか線にならないもどかしさ。
甘く見ていたわけではないが、責任ある仕事である。
還暦をとうに過ぎたおばちゃんにはもったいないくらいの仕事である。
でも、不思議な意欲だけはある。
その意欲が、自我でなく本来の自分からの発露であるように、
本来の自分から自我によって離れていかないように、
気を付けながら自分なりの歩みを進めていこうと思う。
師によると、今年は「産みの苦しみ」の年だそうだ。
納得できる。
瞑想して何が変わったかと問われたら
迷わず言おう。
良い人になったり、立派になったり、強くなったりはしていません、と。
弱点や欠点を克服したなんてことも思わない。
ただ、自分が言っていることしていることをわかっていること、
なぜそうしているのかを知っていること、
そして、そういう自分を許していること、
それでも、自分も捨てたもんじゃないと思えること。
優秀でもなく、立派でもなく、弱さを克服したわけでもないのに
そのことがとてつもなく楽になった、と
それだけは言える。
これからも行きつ戻りつを繰り返すのだろうが、
道は死ぬまで続くのだと納得して歩いている。
それでいい。
それがいい。
師の存在と瞑想のどちらが欠けても
今の私はいなかったと思うと
その縁を授けてくれた何かに
手を合わせずにはいられない。
前後してしまうが、
次は中途半端になっていた「瞑想の歩み」の続きを書いてみたいと思う。