瞑想つれづれ日記② 瞑想によって行く場所は

コラム

私は、幼い頃から脳のどこかが活発に働き、
片時も止まらないという厄介なものを持っていました。

それが生まれついたものなのか
後天的にそうなったものなのかはわかりません。

幼少期、夜間に言い争う両親の怒号や大きな物音を聞きながら
横で泣いている妹が眠りにつくまで
私は絶対に眠ることができず
電気を消すこともできませんでした。

明日の朝、両親が刺し違えて死んでいるにちがいないと、
その凄惨な現場を目撃するのは自分なのだと覚悟しながら、
でも、子どもですから
睡魔に負けていつしか眠っている・・・
そんな子ども時代でした。

嵐が来るぞ!津波がやってくるぞ!
逃げろ!逃げろ!
そう言いながら人々が逃げ惑う中で
私は妹を助けるため
人並みに逆らって嵐に向かって入って行く夢を何度見たことか。

だから、物事を大ごとに、悲観的に受け取り
最悪の結果を想像するのは
今でもものすごく得意です(∀`*ゞ)

物心ついた時から、私にとっての母とは
優しく温かく安全に守られるひな鳥にとっての巣のような存在ではなく

いつ嵐が吹き荒れるかわからない・・・
いつ頭の上から岩石が落っこちてくるかわからない・・・

そんな「危険予知」のアンテナを常に張り巡らせていなければならないような
自分と妹を守るために緊張を緩めるわけにはいかないような

そんな存在に近いものでしたから
言い訳をすれば、私の脳の騒がしさは後天的なものだと思いたいです。

しかし、今の自分について
理由や原因をいくら考えても本当の問題解決にはならず
せいぜい「私が悪いんじゃない」と思って気が楽になるくらいです。

私が本当にやらなければならないことは
それに対しての根本的な解決方法を実践することだけだと
よく師に言われました。

私の脳が自分の意図に関係なく動くのは
自分の脳の個性だと割り切ること。
私の手が、私の目が、私の足がこうであるように
「自分はこうなんだ」と、それでよし!と割り切ること。

師は言います。

平安は心で作られるものではない、と。
心がどうであろうと関係ない。
それでも平安は得られる・・・と。

「心は、その時々の状況に反応するものです。

反応を抑えようとしても不可能ですから
心を静かにすることで平安を得ようとしても不可能だということになります。

だから、本当の変わらない自分を意識できるようになろうとするのが瞑想です。

反応し続けている(平安でない)心を意識できる意識を持つということです。」

この言葉は苦しみの中にいて
心をどうにかして幸せになろうとしてきた私にとって
最後の救いのチャンス、希望だと思えました。

私は、反応する自分を情けなく思い
マイナスの反応をする自分をダメだと思い
プラスの思いを持つと有頂天になり
自分に評価判断を加えては一喜一憂してきたのですから。

その時の自分がどうであっても幸せになれる。
幸せであるのに完全である必要はない。

すーっと入って行ける時も
次から次へと想いが湧いてきて騒がしい時も
ただあるがままに観ることによって変わらない何かが分ってくる。

そして不思議なことに(皮肉なことにというか・・・)
静かになりたいとか、ああなりたいとか、こうであったらいいのにとか
そういう求める心から自由になったとき

様々に反応する自分を超えて
すべてが生まれる静かなその場所に行くことができる。

結果として、それは現実生活の中で
大きな力の可能性として活かされていくように思います。

師いわく・・・
「本当の自分が現実の中で動いたときに魂の個性となります」

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