瞑想つれづれ日記⑥ 瞑想の必要のない人はいない

瞑想つれづれ日記①-

瞑想の効果について人に問われることがよくあります。

そんな時、私は
「これです!」って、
「私はこう変わりました!」と、
即答できる具体例に窮することがあります。

だってね、ビビりが治ったわけでもないし
緊張しいが無くなったわけでもないし
欠点や弱点の一切が克服できたわけでもないし。

自分の傾向に応じてルールを決めていても
忘れていたり、気付いた時にはやらかしていたり
「あーまたやっちまったー!」なんてことはしょっちゅうです。

瞑想してたって、愛する人がいなくなれば悲しいし
寂しい思いもする。

2歳児のような老人を相手にしていたら
ウンザリして軽蔑の気持ちも湧いてくる。

愛情と感謝と憎しみが
矛盾なく並列で存在している。

でもね、私はやっぱり瞑想して良かったと思っているんですよ。
具体例がうまく言葉にできなくてもね。

私の変化は
気づいたら「あれ?楽になってる。」
「以前はこんなふうには考えられなかった。」
「以前の私ならきっと・・・」
そう、気付いたら、っていうレベルなんですよ。

毎日の同じ景色の中に美しさが見える。
そういう幸せなんです。

でも、過去のトラウマや自分の傾向によって
苦手な事象に対しては強く反応したり
理由のわからない辛さに見舞われる時は今でも時折訪れます。

しかし、根気よく瞑想を続け
師にそんなありのままの自分をさらけ出すことによって
産みの苦しみを超えて
必ず答えが与えられます。

そんな時は、もう長年の便秘が解消したように楽になります(∀`*ゞ)
そうやって、少しづつ少しづつ過去を清算し、解放され、幸せに近づいていくんです。

社会の中で役割を担いつつ生きている私たちは
それが「着脱可能」であればいいわけです。

想いがすべての世界の中で
それが囚われにならなければいいわけです。

それには、自分という存在と
自分の想いとが離れていなくてはできないんですね。

捨てる瞑想をするということは
自由になるということは
そういうことだと私は思っています。

でも、そうなるまでの間にも
数えきれないほどの
見逃してしまいそうなくらいの「効果」
が瞑想にはあり、

それをいちいち言葉にするのは難しく
時には思い込みとか自己欺瞞とも取られかねないし
(実際そうなのかもしれないが)
言葉にしづらいというのが本音です。

だから、しっくりする言葉を選ぶなら
私は、瞑想が与えてくれるものは「効果」ではなく
「恩恵」もしくは「恩寵」と呼びたい。
敬虔な信仰を持っている者ではないけれど。

今日も座る。
さっき見たニュースが
職場で起きたことが
見たことさえ忘れていた朝方の夢がよみがえる。

想いから離れながら
いつしか言語化できない自分の奥へと沈み込んでいくうち
気づくと泣いていたりもする。
また今日もズレていたんだな、と気づく。

自我の欠片がポロリポロリと剥がれ落ちていく快感。
意識できないところの不純物が洗い流されていく。

そして、泣いて地上へ戻って来た新たな自分が今日も生きていく。
私はそうやって生きているのです。

幼い頃から無気力だった自分にこんな意欲があったことも

すべての大事なものを得ることができ
すべての不必要なものを捨てることができる場所があることも

浄化されたエネルギーが
こんなに明るく軽やかになることも

瞑想するまで私は知らなかった。

YouTubeでの先生は
「何も問題なく、悩みもなく、今の生活に十分満足していて何も求めるものがない人は
瞑想する必要はないし、それでいいわけです。」とおっしゃっていますが、
こうもおっしゃっています。

「ほんとはね、瞑想が必要ない人はいないんですよ。」

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