瞑想つれづれ日記⑱ 母の死

瞑想つれづれ日記①-

母の死。

母は、昨秋頃から少しずつ衰えはじめ
年末には持病が悪化した。
年が明け、あっけなく母は死んだ。
90歳だった。

老年になっても老いを受け入れられず、
思い通りにならない身体と自分の人生に抵抗しながら
苦しい生涯を送った母。
憎しみの極みだった父との離婚は70歳を越えてから。

しょっちゅうヒステリーを起こしては八つ当たりする母に
もういい加減くたばってくれ・・・
何度そう思ったことか。

「人でなし」「親不孝者」と言われるだろうが、
介護は相手の人格をまるごと引き受ける作業でもあるため
きれいごとでは済まない部分もあった。

その中で私は壊れ、
そしてそれが瞑想との出会いへ繋がった。
出発の縁は他力によると師は言っているが、
私にとっての他力のひとつは「苦しみ=母」だった。

経済的な事情と自分自身を守るため、
最終的に私たち姉妹は母を施設へと送った。
手ごろな施設はうちの近所にもあったのだが
私はあえて片道2時間の距離の施設を選んだ。

「密を避けよう」という社会情勢の中だったが
移送は大人5人がかりとなった。
母は不自由な身体で
どこにこんな力が残っていたのかと驚くほどの抵抗を見せ
私たちに噛みつき、恨みの丈を投げつけ罵倒した。

子どもの頃から見慣れたはずの
火の粉を振り撒くように暴れる母の姿が悲しくて
私はいい歳をしてみっともなくも泣いてしまった。
噛まれたところも痛かったが、他のどこかがヒリヒリと痛んだ。

施設に送ってからも、母は職員さんの手を焼かせ
私たちはしょっちゅう呼び出された。
「お母さんの機嫌をなだめてくれませんか?」
「お母さんに言い聞かせてくれませんか?」
本来ならコロナで面会禁止の期間も
私たち姉妹には特別許可がおりた。

そんな母が死んだ。

もう死ぬまで母には会わなくていい。
会わなくても後悔はない。
そう思っていた。

しかし、あと数日との知らせを受けた時
固いと思っていた決意はあっさりと覆り
私は迷うことなく母の元へと走った。

意識があるのかないのかわからない状態の母に話しかけた。
「お母さん、
お母さんは一生懸命生きてきたんだよね。
わかるよ。私も親になったから。
育ててくれてありがとう。」

本心だった。
言えて良かったと思う。
母の人生を肯定し、感謝を伝えることは
彼女に育てられた自分自身を受け入れることでもあったからだ。

片目は潰れ、半開きになった母の片方の目が一瞬動いた。
喉が膨らみ、息が漏れる。
何かを言おうとしていたが、母の言葉はわからなかった。

子どもの頃、母は恐ろしかった。
いつ爆弾が落ちてくるかわからない緊張の中で私は育った。

ものさしで柔らかい太ももをピシャリと叩かれる時
手の甲で頬を打たれる時
とても冷たかった。

なんでも自分の思い通りにならないと気のすまない母は
完璧主義を絵に描いたような人で
理想に合わないものは徹底的に排除し否定した。
実の娘にもそうだった。
実の娘だからこそ、だったのかもしれない。

どんな人生を歩んだ人間も
死によって最後は純化されると師は言う。
火葬場で母の肉体が焼かれる間
必死に煙突に目を凝らしたが
私は母が喜びの舞を踊る姿を見ることはできなかった。

でも、今の私にとって唯一の救いは
母がもう苦しまなくていいということ。
母が苦しむ姿をもう見なくていいこと。

遺品の整理の時
不思議なことに母へのマイナス感情を感じない自分がいることに驚く。

母が使っていたハンカチ(これが案外私好みだった)
性能の良さそうな爪切り。
短くなった鉛筆。
健康情報がびっしり書き込まれたメモ帳に
最後まで手放せなかった健康食品・・・
そんなものに母の人生を見ている。

繊細で、弱い者に優しく、美しいものを愛した母。
美味しいものを食べるときの満足そうな顔。
母は幸せになりたかったのだ。

もっとこうしてあげれば良かった。
こうしてやりたかった。
そんな気持ちになる自分がいる。

母を愛していたんだ、私は。

瞑想に出会えた幸運を最大限に活かして
生きている間に幸せになろうと
自分の人生を豊かにしようと
改めて心に誓った母の死だった。

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