瞑想の歩み➃ 案ずるより産むが易し

瞑想の歩み①-

さあ、いよいよ初出勤の日。

ひと通りの家事をやり、
帰宅後の子供たちがすぐに夕飯を食べられるように準備を済ませ、
家を出る。

緊張はしているけど、
ある時からパニックを起こさなくなっている自分に
この時はまだ自覚がありませんでした。

職場では、上司や同僚が教えてくれることを
一言も聞き漏らすまいと
いつも目と耳と脳と心を研ぎ澄ませていました。

自分には資格を生かせる仕事のチャンスなど来ないとあきらめきっていた
いえ、そもそも自分が家庭を出て社会の中で仕事をできるなどとは思っていなかったのですから
仕事を与えられた喜びと
あきらめていた職場に身を置ける感謝と
同時に、この先が霧の中にあって何も見えないという不安が
いつも心の中にあったような気がします。

一日、一日と、瞑想と新しい現実の同時進行の日々を重ねました。
そして、約一か月を過ぎたあたりからその不安と緊張が
和らぎ始めているのを感じました。
あぁ慣れてきたんだな、この私も。
人生にはこんな日がやってくることもあるんだ。
そう思いました。

普通のことが普通にできる人
社会に出て働くのが当たり前の人
そういう人たちから見れば
きっと「?」となり、軽く笑われてしまうようなことだと思いますが
その頃の私からしたら
文字通り「小さな世界から出る」ことだったわけで
大変な勇気を必要としたのでした。

※ここで断っておきたいのですが、
私の言う「普通」とか「当たり前」という意味は、
なにも、会社に属して働くことが普通で
家庭にいる者がみな小さな世界に生きているという意味ではありません。

その頃の自分が見ていた世界から見て
「自分にはとてもできない」と思うことを
易々とやってのける人たちがいること、
そんな人たちを強いと思い、
それが「普通」とか「当たり前」だと思っていたわけです。

でも、私は、世間の普通や当たり前ができるようになりたくて
また、自分が思う理想を求めて
仕事を得たのではないことは
「瞑想の歩み」➀で話している通りです※

「案ずるより産むが易し」
そのことが実感としてわかった時
いつも何かに怯え、萎縮して生きてきた自分を再確認したのでした。

自分には能力がないと思い、失敗を恥と思い、その痛みを恐れ、
「そんな辛い想いをするくらいなら何もしないほうが安全」
そんなことを無意識に選んで生きていたことを
今さらのように知ったのでした。

たまたま、現象と何かの波長が一致した結果として
不思議な力が発揮され、自分でも驚くような仕事に繋がり
周りに感謝されるような出来事も体験しました。

しかし、そんな仕事も何年かすると変化が訪れました。
上司が移動になり、
親切に教えてくれた先輩がいなくなり、
新人を迎え、
自分の立場が変わっていく。

私にとって居心地のよかった環境が変わり始めます。
そこからまた自分の自我を再認識することになりますが、
それは、まったく新しい自我というより
もともとの元があって、それが形を変えて現れ出てきたようなそんなもの。
自分でも気づいていなかったけど
確かに自分の中にあったと思えるものでした。

そして、それに気づいていなかった私は
またしても無意識に逃げたのです。

続きはまた今度。

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