瞑想つれづれ日記①

コラム

自分が体験し学んできた瞑想の道を
順を追って整理することと同時に

日々感じることを
徒然なるままに綴ってみるのもいいなと思い
「瞑想の歩み」「瞑想つれづれ日記」の同時並行でやってみようと思います。

今日はつれづれ日記から。

お家時間が長くなり
一時自分の中で下火になっていた庭いじりの機会がまた増えました。

「人間は裏切るけど植物は裏切らない。」と言った人がいますが
確かに植物は、手をかけた分だけ応えてくれる気がします。

庭では、少し前まで芍薬とヒメウツギの花が満開でした。

豪華でみんなが憧れる人気の花の代表選手が
西洋では薔薇、東洋では芍薬といったところでしょうか。

私は、芍薬の豪華絢爛な美しさも大好きですが
ヒメウツギの純白で可憐な花にも惹かれます。

ウツギのひとつひとつの花はとても小さいのですが
それらが集まって一つの見事な低木となります。

この瞑想の取り組みに最も欠かせない要素が「全てを受け入れる」ということなのですが
それはまず何よりも誰よりも最初に「自分」を受け入れることから始まります。

私は自分を受け入れることがとても苦手でした。

自分の弱さや未熟さといった部分を
周りと比較することによってしか捉えられなかったため
それを自分の「汚点」とする劣等感が刺激され、直視することに耐えられなくて
これまでどんな方法もうまくいきませんでした。

しかし、師に出会って
一人の人に私の全てを受け入れてもらうという体験をしたことで
少しづつ「自分に向き合うことに向き合う」ことができるようになっていきました。

もちろん、好きになれない自分やいつまでたっても変えられない自分は
瞑想を始める前も、始めてからも相変わらずいて
それに情けない思いをすることはあります。

そして、その傾向は、失敗した後に自分を責めることで強化されていたと思います。

でも今は、例えばマイナス感情が湧いた時、迷ったり辛く感じた時の自分は
「何に縛られているのだろう。」と考えることができるようになり
縛られているものが分ったらそれを否定し無視する(つまり捨て去る)
ということを選択できるようになってきました。

また、必要なことには自分なりにできる対処法を考えることもします。

最近ふとした時に
これまでの自分に対する見方がとても偏っていたのではないかと感じる機会がありました。

それには、転職という環境の変化が
世界を映す鏡の役割をしてくれたことが大きかったように思いますが
少なくとも私は、自分の弱点や欠点ばかりに焦点を当てていたのだと気付かされたのです。

つまり私は、受け入れることを「自分の悪いことや劣っていることを許すこと」だと思っていたのです。

私は、自分を褒めることがとても苦手だったのですが
「褒めても良かったのだ!」と、今更のように思ったというか・・・。

夢の中の5歳の子どもが「聞いてはならない」と自分に言い聞かせ
目を逸らし続けていた自分のあるがままを
認めてもいいのだと自分に許した瞬間だったのかもしれません。

そう思うと、これまでの人生を振り返って
「よく頑張ってきたなぁ。
今やれと言われてももうできないし、やりたいとも思わないけれど
全てが正解だったとは言わないけれど
その時の自分の精一杯をやってきたんだなー。」と思えたのです。

それは、実はとても私らしいというか
他には真似のできない凄いことが含まれていたのではなかったのか、と思ったのです。

師の言葉です。

「あるがままに自分を観るとは、当然自分のすべてを観るといういうことです。
マイナス面、プラス面だけを観るのは偏った心だからです。

花もあるがままに観れば、そこにある真実に気づくことができます。

あるまままに健気に生きて、そして枯れていくという真実を。

ウツギは薔薇になろうとはせず、自分なりの美しさを表現し
咲いている時に人に見られようと見られまいと
満足して枯れ落ち、そして次の季節を待ちます。」

師の言葉は美しい、といつも思います。
師の在り方は、相手に善を与え
真実に触れる機会を与えてくれると感じます。

あるがままに観るというのは愛がなければできず
逆に言えば、
愛さえあれば人は自分を捨てることができ
結果として真実を観ることができるのでしょう。

私もウツギの花の一輪として自分の花を精一杯咲かせ
そして安らかに寝て翌朝目覚めないという
そんな人生の終わり方ができたら最高だなぁと思っています。

この死に方は、師が理想としている死に方だそうです(笑)

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