毎日の瞑想で森の中に入っていき
ぐったりした少女を抱き締めることを繰り返すうち
私はとても疲れを感じるようになりました。
なんというか・・・
エネルギーを奪われるというか、吸い取られるというか
何せ疲れるのです。
この子を引きずって歩いてきた自分の人生が
いつもとても重たく
人より余分なエネルギーを使わなければならなかったことが
当然のこととして容易に理解できました。
もう限界に近い疲れを感じていた時
少女がうっすらと目を開けました。
意志や感情の読み取れないうつろな瞳でした。
それは自分でも馴染みのある
子どもの頃からの自分の目でした。
少女は何も喋らないし、自分で立って歩こうともしません。
仕方なく私は少女を抱っこして散歩をしました。
私の身体に自分の全てを預け
少女はまるで赤ちゃんのようでした。
私はかつて我が子をそうしたように
背中をトントンと優しくたたき
頬ずりをしながら
赤ちゃんのような少女をしばらく抱っこしていました。
師に言われていた通り
私は少女と一緒に遊ぶつもりで
とことん付き合うつもりでいましたので
頃合いを見て少女を下に降ろしました。
すると、それまでぐったりとしていた少女が
突然私の手を引いてブランコへと走り出したのです。
相変わらず少女は喋りませんが
私は少女が何を思っているか、何を言いたいか
手に取るようにわかりました。
遊んで欲しい。相手をして欲しい。
自分を見て欲しい。私が何をしても怒らないで欲しい。
そんな聞こえない声が聞こえてきました。
ひとしきりブランコで遊んだ後、
少女は木登りしたり、そこら辺を走り回ったり
それまでとは別人のように打って変わって
それはそれは活発でした。
私の手を引いてあちらこちらで遊びまわる少女と
本当はもっと時間とエネルギーを割いて一緒にいてあげたかったのですが
少女のそのパワフルな動きに
抱き締めていた時とは違う疲れを感じた私は
いったん瞑想から出ることにしました。
「必ずまた遊びにくるからね。」
そう言って森を後にし、また訪ねていくことを繰り返しました。
私が森を後にするときの少女の顔はいつも無表情でしたが
かすかに寂しさや困惑が残っているように見えました。
呼びかけても少女が出てこない日もあり、
せっかく会えても私のほうが泣いてしまい、少女がきょとんとしていることもありました。
これって瞑想になっているの?
自作自演じゃないの?
自分のやっていることにだんだん自信がなくなり、師に訊ねたことがあります。
師は、「自作自演でいいのです。あなたが自分で自分を癒すのですから。
自分は自分のことを世界の誰よりも知っています。自分を信頼していいのです。
ですが、肝心なことは、あくまで大人のあなたが主体でなくてはなりません。
そして、あなたの側に少しでも少女を何とかしようという意図があり
あるがままの少女を受け入れる準備が整っていない時は出てきません。」
と言います。
その子をどうにかしようとしないこと。
その子がそこにそのままでいることを許すこと。
そして、満足するまで一緒にいてあげ
「満足したら私と一つになろうね。」
そう言ってあげなさい、とも言われました。
言われる意味は理解できるのですが
実際に実行するとなると、これは相当に骨の折れる作業でした。
少女は、私の手を引いて相変わらず活発に動き回り
私を振り回して楽しんでいるように見えることもありました。
私を本当に信頼していいのか試している・・・そんな感じを受けることもありました。
時には「もう勘弁して。ねえ、話を聞いて。」
と少女に対し、懇願したこともあります。
そう言う私の言葉は少女の耳には入っているはずなのに、少女は聞こえていないふり。
というより、「聞いてはいけない。」「聞こえちゃいけない。」とさえ思っているようでした。
何かから自分を守るため、誰かを守るために・・・
だから「聞かない」と決めているように感じました。
私を振り回して楽しんでいるように見える少女の姿のその裏側には
「信じたいけど信じることが怖い」という恐れがあったのではないかと
今になってみて思うことがあります。
こうして5歳の私と今の私の行ったり来たりの交流はしばらく続きましたが、
少女は最後まで自ら喋ることはありませんでした。
それから次第に呼び出しても少女は現れなくなりました。
現実生活の中で活力が戻って明るく元気になってきた私も
いつしか少女のことは浮かばなくなっていきました。
しかし、その後、私は現実生活の中で
自分とそっくりの少女に出会うことになり、夢の意味を自分なりに理解する日がやってくるのです。
瞑想は、理屈ではわからない自分の深奥にあるものを少しづつ浮かび上がらせ、洗い出してくれます。
「捨てる瞑想」である金井メソッドだからこそ、それが可能になります。
それまでの人生経験は一人一人違い
その人の特性や傾向も異なるため
皆が私と同じような体験やプロセスを辿るわけではありませんが、
その人が強く望み、また必要であれば
瞑想によって不必要なものは捨てることができ、その人にとって大事なものは得ることができます。
私の場合、苦しみからの脱却に始まった瞑想でしたが、
過去に縛られず生きたいように生きるため
自分が納得できる人生を生きるための旅は今も続いています。
未熟な私の体験が、瞑想を必要とする方の一助になればと思います。
3月より教室を再開しています。
詳しくはお知らせをご覧ください。